始めに

このホームページには、1980年の3月に仕事場を借り、独立してから現在までに制作してきた陶器、ガラス、ドローイング作品の一部分と履歴、個展の会場の様子、私の住んでいる高島の四季の風景等を載せています。私にとってホームページと言う空間に、自分がしてきたことを整理し、改めてそれらを見ることはとても大事なことでした。 何をしてきて、何をしようとしていたのかということを、そして、何をしなかったかということを、改めて自分自身に問いかけています。

私が主に作っているやきものは、食べ物を入れる為の器であり、花を入れる為の器です。人が毎日の生活の中で使うものを作っています。それらのものを人が選んで買ってくれる事で私の暮らしは成り立っています。個人として、仕事をして生きてこられた事は、とても恵まれた事だと思っています。毎朝、仕事場に入り、一人で、仕事場にいる間は誰とも話をする事なく(たぶん時々独り言を言っているのかもしれませんが)、夕方まで制作する。私にとってはとても大事な時間であり、36年間変わる事のない習慣だし、これからも続けてゆきたいと思っています。

私が23才の頃(1974年)会社というところではなく、個人として何か仕事をするしかないと思っていていた時に、近所に住む友人が自宅に陶芸の工房を作り、一人で制作を始めたのを見て、自分もやってみようと思いました。京都市伏見区にある磁器の茶道具を作る工房に絵付けの仕事の求人があり、私にはその時まで、全く陶芸に対する知識も興味もなかったので、とりあえずやってみるかという様な気持ちでそこで働き始めました。しかし、そこで毎日、筆を持って絵付けをし、窯詰め、窯出し等の雑事をし、週末に陶芸、いろいろな工芸、絵画、彫刻等の展覧会を見に行き、次第にものを作るという事に興味を持ち近づいていったのです。工房には手塚玉堂という創業者がいて、80歳を過ぎ、その時はもう工房の仕事はしていないけれど、釉薬の研究をしていて週に3度の窯焚きの時には、必ず沢山の釉のテストピースが入っていました。私はテストピースを窯に入れたり、出たものを持っていったりして、毎日の様に顔を合わせていました。ほとんど話をしたことはないのですが、芸術家というのはこの人の様な人のことだろうと強く感じていました。私の様に全く何も出来ない若者に対しても世界で誰も見た事のない釉を作ろうとしていると情熱を持って語り、この人の様な姿勢と態度で生きていければ素晴らしいだろうなあと思いました。ただ世間的な意味では忘れられた存在なのでしょうが、私の中では今も大事な人であり、出会う事が出来て良かったと思っています。

1978年 工房をやめ、スウェーデンに住む日本人陶芸家の所へ行くべく、横浜から船に乗り、ナホトカからシベリア大陸横断鉄道でハバロフスク、モスクワを経てヘルシンキ、スウェーデンへと旅しました。初めての海外旅行であり、ディーゼル機関車でゆっくりと時間を掛けて行く事が出来た事は、とても良い経験でした。列車で知り合った一人の人とは、その後長く付き合いがありましたが60才を前に亡くなった事は本当に残念なことでした。スウェーデンでは、居候として家事や雑用をしながら、蹴ロクロの練習をさせてもらい、一人の作家が、日々どのように制作をしていくのかを実際に側から見る事が出来、そして、ものを作るという事についていろいろな話が出来た事は貴重な事でした。その後、3ヶ月間ヨーロッパ各地を汽車で巡り、美術館、博物館、窯業地を見て回り、いろんな国があり、歴史があり、人がいて、出会った人達と話したことは私の中に深く刻まれています。そして、日本に帰って陶芸の技術を学ぼうと決心して帰国しました。私にとって、この旅はターニングポイントであり、違う世界に行って、自分に問いかける事だったと思っています。

1979年 京都市にある陶工専修職業訓練校に入り、ロクロ成形技術を1年間学びました。毎日6時間、電動ロクロを使って形を作る練習をし、1年後には30cmくらいの花瓶が引ける様になりました。学校へ行く事が楽しかったのは初めての経験で、集中した良い時間でした。

1980年 滋賀県大津市に仕事場と住まい(古くてぼろぼろの建物だけれど)を借りる事が出来、独立。とにかく自分でやきものを作ることが出来る事は嬉しく、アルバイトはしないで、作ったものを売って暮らしていこうと決めました。しかし、何を、どう作ればよいか全く分からず、悶々としながらも試行錯誤を繰り返し、とにかく身体をを動かす事だと土を触っていました。探していたものは、土、素材、釉、窯といったものとのコミュニケーションの中で少しずつ見つけてきた様に思います。この年の11月に京都市中京区にある貸画廊で初めての個展をしました。