ドイツ語を習う

7-Aug-2013

  ドイツ語を習う

チューリッヒの語学学校で2週間のドイツ語集中講座に行きました。30年の間、毎年の様にスイスに来ていたのにドイツ語を学ぶ事は考えた事もはなかったのです、なぜなら、私の会ったほとんどの人が英語を話し、数週間の滞在では何も不自由を感じなかったこと、そして、妻の生まれ育った地域で話されているのはスイスドイツ語と言う強い方言を伴った言語であることなのです。その上に、スイスは地域によってフランス語圏、イタリア語圏、ロマンチ語圏に分かれています。
しかし、昨年からこちらに住んでいると読み書きが出来ず、全く現地の言葉が出来ないのは辛く、とりあえずドイツ語の基礎を学び直す事にしました。初級コースには私を含め10人がいて、その国籍は、香港、ブラジル、セルビア、コロンビア、フィリピン、フランス、ルーマニア、アフガニスタンと様々で年齢は10代が2人、後は20代、女性が7人、いろいろな理由でこの国に来ています。一緒に皆にとって外国語であるドイツ語を学び、話が出来た事は面白く、この2週間は、私にとって、とても貴重な体験でした。ただ、自分がもう10代でも20代でもなく、彼らとは違う場所にいるのだなあという感慨を強く持ちました。

今、スイスには仕事を求め、また、難民として、いろいろな国から様々な人々がやってくる、スイスの人口の25%はスイス国籍を持っていない、また、結婚してスイス国籍を得た人を入れるとその割合はもっと増えるだろう。こちらにいると国籍、人種、宗教、そして歴史が絡み合い、何世代にもわたって影響しあい、また、今もすぐ近くと言える場所で戦争があり、生まれた国に留まる事が出来ず、その地に戻る事の叶わない人々が身近にいます。そんな中に私もまた異邦人として、あなたは誰なのか、と問われているのでしょう。




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長谷川健一さんの話を聞いて

23-Aug-2011

長谷川健一さんの話を聞いて

8月6日(土)滋賀県高島市の安曇川公民館にて、福島県飯館村の酪農家長谷川健一さん
から、3月11日の東北大震災、そして、原子力発電所の爆発事故による放射性物質の飛散
によって、人口6千人以上の飯館村民が避難しなければならなくなった、この5ヶ月間の事
について話しを聞きました。

長谷川さんは飯館村の前田という地区に生まれ育ち、両親、妻、息子夫婦と孫の8人が共に
暮らし、乳牛を育て搾乳し、米、作物を栽培し、地域の活動として耕作放棄地にひまわりを
植え、観光わらび園を運営するなどして、この地に人々が暮らし続けられる様に考えて、
手入れをし、美しい風土をと、主体的に活動をしてこられた人だと感じました。

飯館村の放射線量が、かなり高いという事実が表に出てきてから、多くの学者、マスコミ、
政府の関係者等々、いろんな立場と意見の異なる人々が訪れ、それらの人々に会い、話を
聞きしたが、政府から住民説明会に派遣された放射線の専門家だという大学教授は、
低い放射線量を示して、健康に影響のない事を強調する。フリーのジャーナリスト、
ある学者は、放射線量がチェルノブイリの避難区域よりも高く、ここに住むのは危険だと
指摘する。あまりにも異なる見解、将来への見通しに、具体的な選択を迫られている
住民は、何を選択すればよいのか。

長い時間をかけて出来上がった、土地、家族、地域の人々、仕事、それら全ては強い繋がり
を持ち、分ちがたく、変化をしながらも日々、続いてゆくものであったはずなのに、
原子力発電所の爆発事故による放射性物質の飛散によって、全てが断ち切られ、
失われてしまった。 この理不尽な事態に対して、国、県、村役場、マスコミ、どこの誰も
説明しないし、どのように対処すればよいかの方向もなく、情報もない、このような状況の
中で、一つ一つの具体的な事に対して、自分で動き、人と話し、決断してゆく、
しかし、その決断の意味は、搾乳をしても捨てる、田植えをしない、子供達と若い人達を村
から避難させる、日々に、そして、季節毎に行ってきた事、家族の暮らし、
それらを一つ一つ断念していく事に他ならなかったのです。


長谷川さんは、現在、村外に住み、元の地区の人達と村内の見回り、放射線量の測定を
している。政府が日々、マスコミに公表している放射線量の値は、どこを探せばこれほど
低い値があるのだろうというようなもので、公表を検証しないでそのまま発表している
マスメディアの責任というのは何でしょうか。
雑草に覆われた田畠、牛のいない牛舎、住む人のいない家、
自分たち夫婦は、何時の日か、ここに戻れたらとの思いがあるけれど、
息子夫婦、孫達は再びこの地に住む事はないであろうと言われていました。

 福島原子力発電所で本当は、何が起こったのか、何が起こり続けているのか。

地震と津波によって電源を失い、原子炉の冷却が不可能になり、炉心溶融が起こり
水素爆発によって放射性物質が飛散、これらが気象条件によって時間と共にどのように
広がっていくのかを予測する為のシステムがあり、飛散の状況も把握されていたのに公表
されなかった。この事によってどれほど多くの人達が、被爆し続けたのか、
この事実をどう考えればよいのか。

重大な事実が次々と何ヶ月もしてから露呈してくる事の説明として、パニックを避ける為
であったとか、彼らは、いったい何を怖れているのか、安全であると言い続けてきた
原子力発電所がいかに脆弱で危険なものであったのかが周知されることなのか。


長谷川健一さんは、話しの最後に、放射性物質の飛散の状況がすぐに公表されていたら、
幼い子供達が2ヶ月以上もの間、強い放射線量の場所で暮らし続け、被爆し続けたこと、
せめて早い時期に子供達、若い人達を別の場所に移住させる事が出来なかった事を
悔やまれていました。そして、子供達が福島にいたという事で将来、
差別されるのではないかということも。

長谷川さんは今、全国どこへでも出掛けて、この5ヶ月の間に起こった事、起こり
続けている事について自身の体験を通して感じ、考えた事を伝え、話し合わねばとの思い、
そして、原子力発電所の事故は、全国どこででも起こる可能性があり、
自分の事として捉えてほしいとの思いで高島市へも来られました。

私は、NHKの特集番組などで飯館村で起こった事を見ていましたが、長谷川健一さんという
個人から直接、個人として、話しを聞けた事は、いろんなことがとても強く伝わってくる
事だし、大事な事だと思いました。遠くから来ていただいた事に感謝しています。
そして、これからもいろんな場所でこの事を伝え、話しを続けてほしいと思います。

震災、そして、原子力発電所の爆発、この5ヶ月あまり、私は、この事を考え続け、
人と話し、原子力についての本を読み、このような場へも出掛け、人に会っています。
そして、この現実を悲観的にのみ見ているのではないのですが、以前の様に、私は、
楽観的に物事に距離を持って生きていく事は出来ないのだと感じています。

今、誰もが、自身の立っている場所、自身を支えている繋がり、
それら全てを損なわれて、立ち去らねばならないような世界に住んでいるのだと思います。


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ホームページを始める事

15-Dec-2011

ホームページを始める事

私がホームページを作ろうと思った切っ掛けは、各地で個展に来ていただいた人に詳しい活動の変遷と今後の予定等をお知らせするという事を目的としたものでした。しかし、案内状や写真を整理し再構成するうちに蟻が巣を拡げていく様にあれもこれもとページが増えてゆき空間が枝分かれしていきました。考えてみればこれは、1980年に滋賀県に工房を借りやきものを作り始めた頃からの私家版個人史と言ったものになりそうです。

今は、私にとって何かを作ると言う行為を続けていく上でとても大きな節目に来ているという事を感じています。ある種の危機感と言えると思います、それは、社会、政治、環境、人との関わり、年齢、体力等様々な事に向き合いどのようにコミットメントしていくのかという事からきていると思います。これから、このホームページに作品と共に私が感じ、考えている事も書いていきたいと思います。


陶芸を始めた頃

03-Dec-2008

陶芸を始めた頃

ピクチャ 1.png23歳の時に偶然に陶芸の世界に足を踏み入れ、磁器に絵付けをする仕事をはじめました。そうしながら自分があまりにも 美術のことを何も知らないことに気付き、毎週末に美術館や画廊に出掛け、様々な分野の仕事を見始め、ものを作ると言うことは なんだろうか、どういうことなのかと考えはじめました。4年後、縁があってスウェーデン在住日本人陶芸家の所に滞在して勉強 する機会を得、ヨーロッパ各地の窯業地や美術館、風土、人に触れ、とても強い印象を受け、私はやきものを作る仕事をしようと 決心して帰国し、京都市陶工職業訓練校で形を作る為のロクロ技術を学びました。

 そして、卒業と同時に滋賀県に工房を借り、とにかくやきものを作ろう、扉を開け一歩中に入って行こうという強い思いを持っ て臨みましたが実際には、仕事場に入ったものの 何を作ってよいやら分からず、土に触れることが出来ずに悶々とする日々が続 きました。自分独自のオリジナルなものを、と言う言葉と共に、切実にやきものを作ると言うことを考えざるを得ませんでした。
そして、その圧倒的な歴史とバラエティーの広さに 改めて打ちのめされ呆然としながらも手がかりを求めるなかで、古代ペルシアの土器、そして、動物や植物の文様が生き生きと描かれている中近東からギリシャ、ローマ、エトルスクの焼物、ヨーロッパ各地を旅した時に見てとても強く引かれ共感した形、文様、色、装飾と言うことの意味、それらのことが何故、私の中に言葉に表すことが出来ない何か、何かを揺り動かすのか。そのことを確かめる為に、今、私の手に入る土と釉、電気窯を使ってどのように置き換えていけるのか、それが私のやきもの作りの始まりでした。そして、6ヶ月後に貸画廊の予約をし、どうなるか分からないけれど自分の作った物で一つの空間を満たしてみよう、そこに自分が立つ事に依って始まるのだという気持でした。

個展をする事によって作品、展示の構成、案内状のデザイン等、そして、自分が作った物に値段をつける、全てが初めての体験でした。それは、まるで鏡張りの部屋にいる様に、隠しようなく自分の姿が見えてくるのでした。個展会場にいた一週間の間、自分の作った物と向き合い、 友人、知人、通りすがりに入って来られた様々な年齢、職業、男女の人といろいろな話が出来た事、知り合えた事は個展をするまで考えもしなかった事でした。こうして多くの人の好意に支えられながら個展をする場所が広がり、現在まで作り続ける事が出来ました。そして、これからの仕事を続ける為にはひたすら深く掘り下げてゆくことだと感じています。

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